柏崎市に現存する歴史の長い企業や工房

柏崎市に現存し、令和の現在も続いている、歴史の長い企業や工房をご存知ですか?
まちからコーディネーター調べで、柏崎の中でも歴史の長い、

・五代晴雲 原 惣右エ門工房
・阿部酒造 株式会社
・原酒造 株式会社
・株式会社 越後みそ西
・株式会社 丸小鮮魚店

5社の皆様にインタビューを行わせて頂きました。

身近な場所も日本や世界の歴史と比較すると、長く続くこと自体に価値を感じます。ですが、長く続けられているのには理由があります。

賢者は歴史に学ぶ。
柏崎の生活や社会に溶け込んだ悠久の歴史と、今を生きる柔軟な方々のマインドに触れてみて下さい。

五代晴雲 原 惣右エ門 工房

原 惣右エ門とは鋳物師で作家。工房の名前でもあります。鋳物という金属を使った美術品や工芸品、日用品を作っています。
蝋型鋳造法の鋳物師としては5代目。蝋型鋳造法の手法を取る前から数えると20代以上続く工房です。

ー創業した場所について
14世紀、大阪の鋳物師が柏崎の鯨波に渡ってきたことがルーツだと伝わっています。
創業当初は鯨波の山の方で仕事が始まりましたが、港やまちの中心近くで利便性の高い場所に少しずつ移動していきます。現在の工房がある柏崎の大久保周辺で取れる粘土も鋳型に適しており、大久保に根付いて続けることになります。大久保鋳物と呼ばれる所以ですね。

ー創業からの変遷
創業当初は鍋などを作りつつ、江戸時代になると釣鐘の需要が高まり、新潟の半数以上の釣鐘はこの大久保で作られていました。当時からお米づくりや農業が盛んなので、時間を知らせる物の需要が高まったと聞いています。柏崎の海岸では製塩業も盛んで、塩釜を作って貸し出す仕事もしていました。釜の管理や運営は得意とすることなので、そういう仕事もしていたと伝わっています。今でいうリース業です。

江戸後期になると釣鐘の需要も減り、製塩業や塩釜も気候の良い瀬戸内の方で盛んに行われるようになったため、柏崎の大久保鋳物としては少しずつ作るものが変わっていきました。

美術品としての要素が強くなるのはそのころだと言われています。
大久保の鋳物師が江戸へ蝋型鋳造法を学びに行き、柏崎に技術を持ち帰ってきました。
蝋型鋳造法とは、蝋を完成形と同じように造形して、型を作る手法です。この手法や工程は今現在も変わっていません。

美術品の要素が強くなりながら時代は進み昭和前期、三代目原惣右エ門の頃は「手あぶり」、陶器でいう火鉢も多く求められました。嫁入り道具も重視された時代ですので、お茶の道具一式なども作ったようです。花入れは現在も好まれるもので、作り続けています。アイテムは時代の生活様式の中で変化していきました。

時代に求められるものを作ってきたと思いますが、蝋型鋳造法の技術、道具、真土(まねと読む。蝋型鋳造法の鋳型に使う土のこと)はずっと変わらずにあります。

変わらないものの中でも、真土は再利用するため、本当に古い土を使い続けています。原材料も蜜蝋や松やに、墨やワラなど身近にあるものを使います。なので、ほとんど廃棄物も出ません。
昔から身近にあったもので作られていますが、現代はこういったものが逆に手に入れにくくなっていますね。

ー現在の仕事と、これからについて
作品を美術品として飾っていただくのはもちろんありがたいのですが、使っていただくのも嬉しい。10年くらい前から日常で使っていただく酒器を作っています。5代目になってからは、ものを作る前から提案させていただくことも増えてきました。

いろいろな方とつながりながら仕事をすることも多くなりました。最近だと網代の形をした箸置きです。
市内のレストランで使って頂いて、若い方にも見ていただいているようです。網代を通して柏崎のことを思い出す方も多いので嬉しいですね。

とても長い歴史のある工房です。新潟県の無形文化財にも認定されています。この伝統を継承すること、歴史的価値を守っていくことは大事だと思っていますが、こういうものを愛でたり残そうとしてくれた柏崎の人の生活を豊かにする。その役割を果たせることこそ大事であって、作家としての喜びでもあります。

工房としては仕事を継続できるよう整えながら、一人の作家としての活動の面も大きいと感じています。
そこを整理するのはとても難しいことなのですが、時代に合わせたやり方を模索していこうと思います。

問い合わせ先

五代晴雲 原 惣右エ門 工房
TEL:0257-22-3630
WEB:https://souemon-imono.com
Facebook:https://www.facebook.com/souemon.hara.7
instagram:@seiun5th

阿部酒造株式会社

現在の社長が5代目。息子の阿部裕太さんが酒造の仕事を引継ぎ、6代目蔵元として酒造りを行っています。
代々「庄」の字を名前に引き継いで来ましたが、5代目が「6代目には自由にして欲しい」「時代の変化に合わせて欲しい」という願いを込めて「庄」の字を引き継がせませんでした。
そんな6代目が、時代に合わせた酒造りをしています。

ー創業した場所について
217年間変わらず、柏崎の安田に製造所を構えています。旧国道沿いに製造所が変わらない場所としてありますが、今は安田の国道291号線沿いに直売の店舗を構えて酒販もしています。

ー創業からの変遷
阿部酒造は200年前から清酒製造を続けてきました。
昭和から平成にかけて、新潟の酒は特に人気が高く飛ぶように売れた時代でした。ラベルの付いた酒瓶ですら売れることもあったようです。
そのような時代背景でちょうど平成に入るころ、酒を作らずに売る方へと舵を切ります。4代目の頃に清酒製造メーカーから酒販業に力を入れようとして店舗を構えました。

その後、30年ほど酒販に力を入れましたが、時代の変化とともに日本酒が飲まれなくなっていきました。それと合わせるように阿部酒造の体力も徐々に落ちていきます。

酒販、酒造りは今の時代に厳しい。
5代目からは自由にして良いと言われていました。ですが、私自身は会社員時代から酒造りがしたくて。会社員の頃から、計画的に新潟の農産物や飲食に関わる仕事についてましたね。
平成25年に東京から戻り、6代目蔵元として酒造りを始めました。

ただし最初は大変でした。再度、酒造りに力を入れようとした時は人も体力もない中で、柏崎の方々や企業にお世話になりました。特に原酒造の杜氏さんからは助けてもらい、他社の酒造蔵なのに人を送り込んでもらったりと助けていただきました。その時に、改めて酒造りに関わる人の懐の深さを感じます。

ー現在の仕事と、これからについて
私たちの酒造りは、製品の価値を高めて、酒屋に選ばれる努力を続けることに尽きます。プロダクトに圧倒的な熱量、人的リソースも加えて造っています。香りは少なく、酸味は多め、製造者の人数に対してできる酒の量は少ない。一般試験があれば、大バッテンをもらってしまうかもしれません。

ですが、酒は嗜好品。好きな人に刺さるように市場の声すらプロダクトに寄せられるように発信も行っています。
阿部酒造が目指しているのは、美味しいと思ってくれる人にしっかり届くこと。好きな人に選ばれることです。そのために、今を生きる自分たちがおいしいと思えるものに熱量を加えていくことが重要です。

これからの展望としては、酒造りはさらに力を入れていきます。日本酒にこだわりはありますが、他にもいろんなことをやっていきます。例えば最近だとクラウドファンディングでクラフトコーラを作りました。ただクラフトコーラを作ってみたかったのではなく、いろんな入り口を作りたかったんです。
日本酒だけを飲んで日本酒を好きになってもらうのではなく、たくさんある入り口から最終的に日本酒も好きになってもらうようにしていきたいですね。

地域にある酒蔵の役割は、地域から支えられながら、一緒に成長していくことが大事と感じています。ただ今の時代は酒だけで成長するのではなく、いろんなものを作りながら成長していきたい。
伝統産業の本質もそういうところにあると思います。ずっと同じことをするのが伝統ではない。時代によって変わる必要がある。昔のやり方全てを変えるのではなく、現代の形にうまく変えて伝えられるのが伝統的な産業に必要だと思っています。そして何かを変えられる環境を整えていくことも大事だと思います。

阿部酒造の製造所や蔵は誰も受け付けない、ちょっと遠い存在になっていました。これからは地元に寄り添うようにありたい。
そういう意味で交流拠点のような場所を具体的に作っていきます。同じテンションの人同士で街を作っていくイメージですね。もちろん自社だけではできないので、地域の人とやれるよう環境を整えていきます。

問い合わせ先

阿部酒造 株式会社
MAIL:abe.sake.brewery@gmail.com
WEB:https://www.abeshuzo.com
facebook:https://www.facebook.com/koshino.otokoyama.kashiwazaki
twitter:@abesakebrewery
instagram:@abesakebrewery_yutaabe

原酒造株式会社

創業は江戸時代の後期。柏崎で200年以上続く酒蔵です。現社長の原吉隆さんで7代目となります。
昭和25年に株式会社となり、5代目の原哲郎さんが初代社長。その当時、4代目であった原吉郎さんは初代柏崎市長です。名実ともに柏崎とともに歩んだ歴史があります。

ー創業した場所について
場所は200年間変わっていません。柏崎のまちなか、新橋で酒を作り続けてきました。
実は明治44年に起きた柏崎大火の被害で、建物も資料もほぼ全て焼けています。なので過去を示す資料がほとんど残っていないのです。

唯一、当時を伝える写真があります。4代目の原吉郎さんが写っていますね。柏崎大火の後にちょうど蔵を再建しているところです。
この頃に再建した蔵も含めて、平成19年の中越沖地震で7割近くの建物が全壊しました。残念なことでしたが、そういった火事や天災に遭っても復興してきたのが今の原酒造です。

ー創業からの変遷
始まりは原酒造の初代となる、原幸太郎さんが家族に当時の家督を渡し、酒造りを始めました。なぜ酒造りを始めたのか、その理由はわかりません。

酒造りは江戸時代の後期から始まりましたが、もともとは鍋や窯の修理製造を行う、鋳物師屋を行っていました。
原酒造の建物に「まるな」と書かれていますが、屋号を「なべや」と言い、鋳物師屋の時の屋号を受け継いでいます。
根っこは原惣右エ門さんと一緒かもしれませんね。

明治に入り、柏崎大火のあった頃は4代目の原吉郎さんが酒造りをしていました。ですが、大火の被害に遭ったり、タイミング悪く取引銀行が破産したりと、悪いことが重なった時期でした。吉郎さんは廃業するか悩んだと伝わっています。
また、吉郎さん自身もお酒というものにマイナスの面もあると悩んでいたそうです。飲み過ぎれば体を壊したり、酔い過ぎれば喧嘩や諍いが起きたり。そういうものに関わることが良いことなのか、自問を繰り返していました。

そんな時、4代目の取った道はお寺に籠ることでした。ご近所の極楽寺に高明な弁栄聖人が訪れていた時に弟子入りをします。必死に修行し、お酒はマイナスの部分もあるけど、この世に必要なもの。悲しい時に慰めたり、嬉しい時は何倍も盛り上げたりするものだと悟ったそうです。

それからは原酒造の復興に力を注ぎました。昭和初期頃は周りから押していただき衆議院議員となり、昭和15年には柏崎市の初代市長となります。昭和25年には株式会社となり、5代目の原哲郎さんが社長となりました。

4代目のことは良く聞かされてきました。
ある時、長野方面に登山に行った時、諸国を回る修行僧が近づいてきて拝み始めたそうです。いぶかしがって何をしているのか聞いたところ、あなたほど得の高い人はいないと拝んでいたようです。ちょっと常人離れしていたという逸話が伝わっています。そういうこともあり、ずいぶん立派な方だったと教えられてきました。

5代目は復興の時代です。戦争もあり、生活が大変厳しいものでした。お金に厳しかったと記憶しています。
6代目は近代化を計り、蔵人を年中雇用に切り替えたり、販路拡大と順調にやってきましたが若くして亡くなります。
その当時は社員一丸で会社を支えて、現在は私が7代目となりました。

過去に色々な出来事がありましたが、私自身も中越沖地震という大きな経験しました。
地震で普段使っている事務所が潰れてしまったのですが、この日は会社の休みを頂いていて、誰もいなかったので命が助かりました。このことは運命だったと感じています。
会社としての被害は大きかったけれど、人的被害がなく本当に良かった。

地域の方々からも大変助けてもらい、いつかは恩返ししたいと強く感じています。今もそう思っているのですが、あまりにも多くの方から恩を頂いているのでお返ししきれていませんね。
ご近所の方だと、白百合カトリック幼稚園の皆様が私たちのために炊き出しをしてくれました。その時はご好意を甘んじて受けさせてもらい、2週間続けて炊き出しを頂いた後、お礼に伺いました。

ー現在の仕事と、これからについて
現在の仕事は日本酒の製造販売が主力です。また、甘酒や梅酒などリキュールの製造も行っています。甘酒は栄養価が高くて飲む点滴と言われていますね。一時期はブームにもなっていましたが、今は根強いファンに支えられて販売を続けています。

これからは高品質メーカーとして輸出も視野に展開したいと夢を持っています。ポテンシャルはあると思っているので、まずは今の感染症渦の時代をどう凌ぐかが課題ですね。

地震を経験して、地酒メーカーは地域に支えられていると肌で実感しました。言葉ではいくらでも言えるのですが、私の場合は実体験として考え方を作るものになっています。
そういう思いもあり、酒彩館という開かれたお店を作りました。多目的ホールを併設して、講演会や音楽イベントなどにも利用してもらっています。フラメンコのコンサートなんかもしましたよ。一般の方に酒屋の敷居が高い、と思われているのはさびしい。酒屋や酒蔵に人が集まって、情報を発信していくことが必要と感じています。非日常的な空間を作って、酒蔵や酒屋が楽しい場所になっていくと良いですね。

地震、雷、火事、親父という昔ながらの言葉がありますが、原酒造も私も雷以外は経験をしました。親父も本当に怖かった。
その度に復興してきたのが歴史です。

いずれは感染症の状況も落ち着くでしょう。私たちは、その先のことを見据えながらやっていきたいと思います。

問い合わせ先

原酒造 株式会社
TEL:0257-23-6221(本社) 0257-23-3831(酒彩館)
MAIL:hara@basil.ocn.ne.jp
WEB:http://www.harashuzou.com
facebook:https://www.facebook.com/harashuzou
twitter:@harashuzou1814
instagram:@harashuzou1814

株式会社越後みそ西

190年前、醤油醸造業から始まった越後みそ西。現在は味噌を中心に製造、販売しています。
前身となる株式会社にしまきの事業を引き継ぎ、1999年に株式会社越後みそ西となりました。
昭和期にはタカラパンや柏崎初の洋食レストランをオープン。フードタカラの運営など、柏崎の食文化のそばにあり続けています。

ー創業した場所について
創業時は西本町で醤油や味噌を作っていました。柏崎神社の裏側に蔵があって、醤油や味噌の醸造をしていました。今は東本町に移転されましたが、柏崎神社の横にあったすみれ屋さんの近くですね。
昭和7年に前身である株式会社にしまきが製パン業を始め、パンの製造所を作るのに合わせて、昭和44年に蔵を新道に移転させました。そして現在に至ります。

ー創業からの変遷
前身である株式会社にしまきは、もともと醤油醸造業です。昭和の時代にかけてパンの製造所を作ったり、柏崎初の洋食レストランを開設したり、フードタカラというスーパーを運営したりと、多角化した経緯があります。
その後、1999年に株式会社越後みそ西を設立し、醤油や味噌の製造販売を引き継ぎました。移転前から現在も酵母を自家培養しているのですが、移転当初は味噌の味が安定しなくて苦労したと聞いています。

今も当時の味を引き継いで作っていますが、温度や湿度、時代が変われば環境や材料も変わり、実際は少しずつ味も変わってきています。
変わらないことは、思いとして「味噌をこういう状態でお客さんに提供したい」ということです。こういう状態というのを説明するのは難しいですが、現在も杜氏が麹むろで米こうじをおこし、味を確認しながら作っています。

環境づくりとして機械化に挑戦することも一つの方法だと思いますが、私たちとしては人の目と手を使うこと、五感を大切にすることで、越後みそ西らしい味を生んでいます。五感を大事にした結果、「この味だったのよ!」と変わらずに言っていただくこともあります。

もう一つ変わっていないところは、木桶で作るということです。木桶は100年以上使っています。酒蔵さんで使っていたものを譲り受けているので、酒蔵での期間を含めると200年以上のものもあります。
大型の木桶は全部で10基。譲り受けたものなので、写真の桶は十三号と書かれていますね。

味噌を作るのに、種類によって最短で3~4ヶ月くらいかかるので、そのペースで木桶を使い回しながら続けています。逆に使わないとすぐに朽ちてしまいますね。一時期、工場に来られた方へお見せする木桶を外に置いたのですが、すぐに朽ちてしまいました。

ー現在の仕事と、これからについて
店舗としては新道の本社工場を基点に、西本町と弥彦神社のふもとにお店があります。三階節みそをはじめとした味噌、味噌漬け、醤油、塩麹や甘酒、新潟の名産品を販売しています。新潟の名産品はスタッフがご紹介したい逸品を自ら目利を利かせて、置かせていただいています。

味噌や醤油は誰かに使ってもらって、生きる商品です。そして消費量や生産量が下がっている現状もあります。そうした状況を打破していくために、若者世代や市内外に広く使ってもらえるようにしていかなければなりません。

そのためにお菓子屋さんとコラボ商品を作ったり、みそラーメンの食べ歩きスタンプラリーをするなど、いろんな方法でお客様との接点を増やしています。

前身の株式会社にしまきでは古いものを守り続けるということだけではなく、新しいものも取り入れるというのが社風でした。そういう考え方を引き継ぎつつ、「こういうものをお客様に届けたい」と舵を切ること、軸はブレないようにしたいと考えています。

私たちが作るみそは、この柏崎の新道にしかない温度や湿度、根付いた酵母、そして今いる杜氏の目と手によって作られるものです。生産量は決して多くないし、原材料もコシヒカリなど高級なものを使っているので原価率も高い。全てはこの味を生むためです。
この場所でしか作れない味を継承していくと同時に、ここでしかできないものとして価値を高めていきたいですね。

問い合わせ先

株式会社 越後みそ西
TEL:0257-23-1893(本社工場) 0257-21-0039(西本町店) 0256-77-8562(弥彦笹屋店)
WEB:https://misonishi.jp
facebook:https://www.facebook.com/misonishi
instagram:@echigomisonishi

株式会社丸小鮮魚店

江戸時代から続く柏崎の魚屋、丸小鮮魚店。
当時は魚屋紋次郎として漁師をしながら、魚の卸しをしていました。昭和28年に現在の株式会社丸小鮮魚店として会社化します。
現在は10代目の小林市郎さんが継がれて、11代目である雄太郎さんたち若手の家族と一緒に、柔軟に魚屋を営んでいます。

ー創業した場所について
創業の頃から現在の西本町にあったと伝わっています。
家に初代の小林紋次郎の名前が書かれた提灯入れがあるのですが、そこに中町と書いてあります。中町とは市制を導入する前の西本町周辺の名前ですから、この辺りで続けてきたんだと思います。

ー創業からの変遷
初代の小林紋次郎の頃から漁師をしながら、魚を卸す仕事をしていたようです。昭和28年に株式会社化して、丸小鮮魚店となりました。「まるこ」の「こ」の字があるでしょう。よく間違われるのですが「子」の字ではなく「小」の字なんです。

漁師の仕事は昭和20年、終戦の頃までしていました。船は番神の方にあったと聞いてますが、人に譲ってしまった記憶があります。当時は鯛を中心に漁っていたようです。
おばあさんの口癖で「米山さんの影になるところで鯛が取れるぞ」と、ずっと聞かされていました。

昔の話はよく聞かされています。このあたりは大火が多かったですよね。火事になると番神の漁師たちとみんなで火消しをした話もありました。昔の漁師はいろんなことをしていたそうです。それからは魚屋一本ですね。

今の仕事は、魚屋といって良いのかな?魚の卸しは市場でしていますが、店の方では惣菜をしたり、あんころ餅をしたり、お弁当を作ったり、いろんなものを出しています。あんころ餅は昔食べた味が好きで、妻が再現してくれました。昔ながらのぼた餅ですね。若手たちが苺大福やポテトなんかも作って出してますよ。インスタグラムを使って発信もしてくれています。

お店のコンセプトは「自分たちがおいしいと思うものは売っても良いよね」ということです。
やってダメならやめてしまうんですが、いろいろやると反響があって。おいしいものを喜ばれるのがやっぱりうれしいです。

逆に、魚屋という業種に囚われていると頭が固くなってしまうので良くないですね。魚が常にたくさん取れるなら良いのですが、漁獲量自体も減っています。私たちとしては、お客さんに商品をごり押しするのではなく、柔軟にやっていくのが大事だと考えています。

販売する商品は売り切れるようにしたいので、ひと工夫しています。例えばイワシなんかはそのままだと売れにくいですが、すり身やぬたにしています。加工するので手間がかかると思われますが、仕事は要領の良さ次第です。逆に鮮魚はほとんど扱っていません。生で売るのはお刺身や新巻鮭、あとは魚卵系ですね。できるだけここでしか売れないものを準備しています。

これからは若い人の時代です。息子も奥さんといっしょに仕事してくれています。最近はSNSなども使いながら、やってくれていますね。
彼らにはご先祖さんがしてきたことを、細く長くして欲しい。あんまり太くしても大変ですから。近所のお稲荷さんのご利益がある範囲でやって欲しいですね。

問い合わせ先

株式会社 丸小鮮魚店
TEL:0257-22-4059
WEB:https://marukosengyo.com
instagram:@marukosengyoten

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