別アングルは柏崎の魅力的な人を取材して、その人の情熱や生き方を紹介するインタビュー記事です。
お話を伺うのは、仕事、遊び、趣味など、何かひとつのことに打ち込む人たち。動機は、好きだから、楽しいから、気が付いたらやっていたからと、いたってシンプル。
それが結果として人を喜ばせ、地域のためになっている。
別アングルから見るとまちづくりになっている。
魅力的なひとの存在に気づけば、またさらに柏崎が好きになれるはず。
そんな想いでこの記事を書きます。
霜田 真紀子(しもだ まきこ)
柏崎市生まれ。シモダ産業株式会社 常務取締役 営業企画部部長。
シモダ産業による新しい農園、シモダファームを立ち上げ、ブランドバナナ「越後バナーナ」の栽培を開始。
「越後バナーナ」のブランド化を通じて持続可能な地域貢献を目指す。

「私が父の会社を継ぐ。男ばかりの会社だから、ナメられちゃいけない」
中学生の時に父の会社を継ぎたいと思った。
父は砂型を作る会社を経営していた。
砂型とは自動車部品などの金属の鋳物製品を作るための型のこと。
私はその工場のすぐ隣にある家で生まれた。
「社長をやるために、勉強してちゃんとした大学に入るんだ」
当時は今以上に女性が社会で活躍するには難しい時代。
さらに父の会社は工場で、男ばかりの職場。
今思えば、他にも武器を身に付ける方法はあっただろうに、そこはやっぱり中学生だからかな。
社長になるために考え付くことは、それくらいのことだった。

私は二人姉妹の長女だけど、会社を継ごうと思ったのは「長女だから」という使命感じゃない。
お婿さんをとって継いでもらうという考えもない。
親から継げと言われたこともない。
砂を使う仕事で汚れることも多いから、仕事の内容にトキめいたわけでもない。
ただただ
「この会社の社長は私がやるんだ」
自分でそう思い込んでいた。
物心ついたころから家の隣にある工場が遊び場。
今でこそ外部の人の立ち入りは安全面やセキュリティで厳しいけれど、昔はフリーな状態で工場の中は入り放題。
小学校からは雑木林の中にある通学路を通り、工場の敷地をショートカットして家へ帰る。
工場の中に寄って、従業員のおじさんたちに遊んでもらう。
会社というものが身近な存在だった。

今でも覚えている中学三年生のとき、三者面談でのこと。
将来どうするのか、先生から聞かれた。
「大学に行きます」
と答えると先生は、
「その先はないのか。もっと夢を持ちなさい」
と怒る。
見かねた母親から
「大学へ行くことだって十分な夢じゃないですか。そう怒らないでください」
と助け舟。
そのときは「会社を継ぎたい」という言葉は出ない。
結局その意思を伝えたのは社会人になってから。
自分にとって「会社を継ぐ」というのは、将来なりたいものや夢というよりも、もっと現実的なものだったのかもしれない。

高校は長岡の高校に入った。
柏崎から出たかったの。
私の家が会社を経営していることを、周りはみんな知っている。
周りの目が気になったのかもしれない。
会社を継ぎたいという思いを持ちつつも、高校は自分のことを知らない人たちに囲まれて暮らしたいって思った。
長岡の高校へは電車で通学する。遠いから部活に入れない。
それまでは陸上をやっていたのだけど、高校では何もできなかった。
一浪して早稲田大学の商学部に入学。
高校では部活ができなかったから、大学では何かサークルがしたかった。
新歓コンパの時期にたまたま飲みにいったスキーサークルの先輩が優しくてね。
よくあるでしょ?
サークルの飲み会に行ったら先輩が優しい人で、そのまま入会しちゃうっていうパターン。
いざスキーサークルに入会すると週3回の本気トレーニングが待っていた。
冬はゲレンデがオープンすると同時に山籠もり。練習して大会に参加しての繰り返し。
どっぷりスキーにのめりこんだ。おかげで気合や体力がついた。
サークルの同期、先輩、後輩は今でも仲が良い。
大学卒業後は東京で企業向けの保険会社に就職。お客さんは中小企業の社長が多い。その仕事を選んだ理由は、経営者とたくさん話せるから。自分が社長をやるときに役立つと思って。
とある祝日のこと。その日は会社が休みだった。
家でテレビを見ていると、地震速報が入る。
「震度6強 新潟県中越地方」
地震速報を伝えるテレビ画面には「柏崎」の文字。
見慣れた柏崎のまちの景色が映る。
episode.2へ続く
photo:ヒロスイ