別アングルは柏崎の魅力的な人を取材して、その人の情熱や生き方を紹介するインタビュー記事です。
お話を伺うのは、仕事、遊び、趣味など、何かひとつのことに打ち込む人たち。動機は、好きだから、楽しいから、気が付いたらやっていたからと、いたってシンプル。
それが結果として人を喜ばせ、地域のためになっている。
別アングルから見るとまちづくりになっている。
魅力的なひとの存在に気づけば、またさらに柏崎が好きになれるはず。
そんな想いでこの記事を書きます。
渡邉 豊(わたなべ ゆたか)
柏崎市生まれ。ODDEYE IDEA(オッドアイ イデア)代表。
店舗のデザインや住宅のリノベーションを手掛ける。
柏崎の水球界ではコーチも務め、選手の育成に励む。

憧れだけで上京した東京はバブルがはじけた90年代。
かろうじてまだバブルの残り香があった。
当時の都会の遊び方はあまり相性が合わなかったが、スキーはバブリーなイベントの一つだった。
週末は日帰りスキーをするため土曜日の深夜に出発。車中泊して朝イチからリフトに乗り込む。ナイターまで滑り関越道の渋滞にハマり日付を跨いで月曜日に帰宅。眠い目を擦って出社。
新潟出身というだけで「スキーうまいんでしょ?」って行きの車内で言われまくり、帰り道は誰もその話題に触れず。
もっと一生懸命スキーと向き合っていれば良かったと毎回後悔していた。
卒業間近にやっと、やりたい事が見え始める。
「舞台を作り上げる仕事に就きたい」
放送関係ではなかったもののイベントの舞台制作の会社に就職。
デザイナーやプロデューサーって言葉に憧れはあったが、そこにいくための準備も努力もしていない。就職先での仕事は現場で汗水流す肉体労働だった。
仕事内容は華やかなところでは東京モーターショーのブース設営、お堅いところでは迎賓館でサミットの通訳ブースの設営などなど。毎日が新鮮だった。
この業界を肌で感じられた事は今の仕事にとても影響を与えてくれている。

仕事自体は楽しいものの、全ての「時間」が早くて目が回る。
そして大都会東京は人が多過ぎた。
たくさんの人が周りにいるはずなのに、まとわりつく孤独感ばかりが増してゆく。
そんな中、お正月に柏崎に帰省する。朝8時すぎに目が覚め天気がいいからとスキー場に向かう。10時前にはリフトの上。天気が崩れたからと2、3本滑って気軽に帰ることもできる。
「あれ、俺、何をしている?」
心地よいリズムを打つ滑車の振動を受けながらリフトの上で気づく。
「東京は仕事も面白いし、周りの人は個性の塊のような人だらけ。都会でしかできない遊びもいっぱいあるけど、俺の居場所ではないな」
その瞬間、柏崎に帰ろうと決めた。
柏崎での再就職はハードルが高かったが運よく土木業の会社に就職、道路を造る仕事を始めた。前職のような華やかさはないものの、地域が必要とするものを作る仕事はやりがいがあった。
間もなく「豊が帰ってきたから」と、実家を建て直すことに。
初めて一からプロデュースする自分の部屋は今までの経験や知識を集約し、こだわった内装にしたかった。
俺は運がイイ。担当の現場監督さんもUターン組で、東京では展示会などのブースを作る仕事をしていたそうだ。同業者で互いの会社もよく知っている。話は弾んだ。家は納得のいくものになった。
数年後のある日、その現場監督から海沿いの喫茶店に呼ばれる。
「柏崎で店舗内装やイベント舞台を手掛ける仕事を立ち上げるから手伝ってくれないか?」
こんな田舎でそんな仕事が成り立つわけないと最初は断っていたけど。
「お前はこのまま一生道路だけを造っていくつもりか?」
スティーブ・ジョブスがジョン・スカリーを口説いたようなセリフに感化され転職を決意。

仕事が終わると毎日のように友達と遊ぶ。水球の仲間たちだ。彼らはボランティアで柏崎の中学生に水球を教えていた。
ある時、小学生のチームを立ち上げるから指導者をしてくれないかという話が来る。
何も考えず二つ返事をしたが、その口約束には終わりがないことに当時は気付けなかった。

小学生チームを作るための選手集めは大変だった。
「小学生の水球チームって全国にどのくらいあるんだ?」
そんなレベルからのスタート。小学生に教えるというよりは保護者に怒られながらも、みんなで作り上げていったチームだ。指導者になり今に至るまで、たくさんの貴重な経験をする。
時には日本一なんかにもなった。
episode.3へ、つづく
photo:ヒロスイ